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スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

『人の欠点を非難するのはいけないことですか?』

■ 霊界通信とQ&A ■ 霊性を高める



今日は、A・カルデック 霊の書 の内容を抜粋してお借りしたいと思います。

著者のアラン・カルデックについて(ウィキペディア) → こちら
本はこちらです 霊の書〈下〉




[708] 働く意欲の起こらぬ職場、働いても必要なものも手に入らぬ仕事、そのようなものがありますか。


「ある。
それは試練である。
しかしどんなに辛くても、そこの人達は、霊界に在った時に、それに耐えねばならぬことを知っていたのである。

もしも彼が知性の働きで、その苦しみから救われる道を見出さねば、死が近づく時、その事に愚痴は起こるまい。
そしてこう思うだろう。
いま解放の時が近づいている。
最後になってボヤいたら、せっかくの忍従の成果を失うことになろうと」


[712] 神はなぜ、人間の心に、物質享楽の魅力を植え付けられたのですか。

「先ず、人間の心をそそり、神の使命を果たす者となるよう。
第二に、人間を試みに合わせるため」


―この試みの目的は何ですか。

「理性の開発、彼が度を過ごさぬ者となるよう、そのためである」


[898]地上の命は低級な状況下でのほんの一時の逗留にすぎません。それ故、来生こそ主として心に留めるべき生活です。従って、現世の事、現世の必要、それだけしか取り扱わぬ科学知識を習得して、何の役に立ちますか。


「絶対に有用である。
というのはこの知識によって、諸君は同胞に利益をもたらせるからである。

それだけではない、諸君の霊がもし知的に十分進歩すれば、他界(霊界)に入って急速に進歩できる。
地上で何年もかかったことが、すぐに習得できる。

どんな知識といえども、無役ではない。
すべての知識が諸君の進歩に、大なり小なり寄与する。
と申すのは、完成した霊は、すべての事を知らねばならぬ。

進歩はあらゆる方向でなされねばならぬ。
すべての得た知識が、本人の進歩を進め、役立つのである」


[903]他人の欠点を詮索することは間違ったことですか?

ただ批判したり、すっぱ抜いたりするためだけならそれは大変悪い。
つまり、それは愛を欠いた行為だから。

自分にある欠点を取り除いて、自分のために役立てようという考え方をするのなら、役に立つ場合もある。
しかし、他人の欠点に寛容であることは、愛の要素の一つであることを忘れてはいけない

他人の欠点を非難する前に、先ず、自分と同じような欠陥を非難していないか、これを考えるべきである。
他者の欠点を詮索して役に立つ唯一の道は、反面教師、これから学ぶことである。

彼は欲深い?
そうしたら寛大になりなさい。

彼は高慢?
諸君は謙虚で慎み深くなりなさい。

彼は無精?
そうしたら親切でありなさい。

彼は卑劣漢でけちんぼ?
諸君は自分の行為すべてに崇高でありなさい。

要するにイエスの次の言葉が、諸君のことを言っているのだといわれないよう、行動しなさい。

<他人の目の塵は見えるのに、自分の目の中のうつばりを見ない>と」


[904] 社会の傷の部分をはっきりさせる目的で、あれこれ詮議だてする事はいけないことですか?

「それは何のためにするのか?
その動機いかんによる。
スキャンダルを生むだけが目的なら、為にはならぬ。
世を害する図を描いて見せて、自分一個の満足を得るものである。
本人の心にはその社会の悪が分かっていながら、その悪を描きだしては楽しむ傍観者は、その罰を受ける者となろう


― この場合、その作者が純粋であること、それはどうやって判断できますか。

「それは必ずしも判断をする必要がない。
もし作者が良いものを書けば、それによって利益を得る。
悪ければ、それは本人の良心の問題である。
どうしても本人が自分の誠意を証明したければ、彼自身が優れた手本であるように振る舞わなければならない」


[906] 善を為す人が、自分の行為を善であることを、また自分にとって良い事であることを意識するのは良くない事ですか。

「人は自分の行う悪を意識する限り、また自分の行う善をも意識する。
人は自分が善悪いずれを行ったかを知ることができるのは、この本人の良心の声によるのである。

人は自分のすべての行為を、神の秤、特に正義と愛と奉仕の秤で計量して初めて、自分が善であるか悪であるかを決定できる。
また、善しとできるか否かを決定できる。

それ故に、彼が自分の悪に打ち克った事実を知り、これを喜ぶことは、もしこの認識を無駄にしていなければ、それは悪かろうはずがない。
何となれば、もし無駄にでもすれば、自分が克服したと同様な悪の道を歩くことになろうから」