スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

(基本的には)前世は誰にもわからない



今日は名訳者であり国内トップクラスのスピリチュアリストだった、故近藤千雄さんによる著述の一部をお借りしたいと思います。

 シルバーバーチの霊訓 第8巻 からお借りしました。

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第六巻の十章で、"自分の前世を思い出して、「それ」と断定できるものでしょうか" という質問に対して、シルバーバーチは、それは理論的にはできますと言えても、実際にそれができる人は現役の地上人類にはまずいません、と述べている。

ところが現実には洋の東西を問わず、"あなたの前世は○○です" とか、みずから"私は××の生まれ変わりです" と平然と公言する自称霊能者が多く、またそれをすぐに真に受けている信者が実に多いのである。

スピリチュアリズムの神髄(1880年刊)』の中で著者のレナードがこう述べている。

「この輪廻転生に関して意味深長な事実がある。
それは、前世を "思い出す" 人たちのその前世というのが、たいてい、王様とか女王とか皇帝とか皇后であって、召使いのような低い身分だったという者が一人もいないことである。
中でも一番"人気のある" 前世は、女性の場合はクレオパトラで、男性の場合はたいてい古代エジプトの王という形をとる」

こう述べてからD・D・ホームの次の言葉を引用している。

「私は多くの再生論者に出会う。
そして光栄なことに、私はこれまでに少なくとも12人のマリー・アントワネット、6人ないし7人のメリー・スコットランド女王、ルイ・ローマ皇帝ほか、数えきれないほどの国王、20人のアレキサンダー大王にお目にかかっているが、横丁のおじさんだったという人には、ついぞお目にかかったことがない。
もしもそういう人がいたら、ぜひ貴重な人物として、檻にでも入れておいてほしいものである」

これが東洋になると、釈迦とかインドの高僧とかが人気の筆頭のようである。
(なのにもかかわらず)釈迦のその後の消息が皆わからないのがスピリチュアリストの間で不思議の一つとされているが、あの人この人と生まれ変わるのに忙しくて、通信を送るヒマがなかったということなのだろうかと、皮肉の一つでも言ってみたくなる。

それにしてもいったいなぜ高位・高官・高僧でなければいけないのであろうか。
またなぜ歴史上の人物でなければ気が済まないのであろうか。

マイヤースの「個人的存在の彼方」に次のような一節がある。

 「偉大なる霊がまったく無名の生涯を送ることがよくある。
ほんの身近な人たちにしか知られず、一般世間の話題になることもなく、死後は誰の記憶にも残らない。
 その無私で高潔な生涯は、人間の規範とすべきほどのものでありながら、それを証言するものは一人としていない。
そうした霊が一介の工場労働者、社員、漁師、あるいは農民の身の上に生を受けることがあるのである。
 これといって人目につくことをするわけではないのだが、それでいて、類魂の中心霊から直接の指導を受けて、崇高な偉大さと高潔さを秘めた生涯を送る。 
 かくして、先なる者が後に、後なる者が先になること多し(マタイ19・30)ということになるのである」


オーエンの『ベールの彼方の生活』第3巻 に、靴職人が実は大変な高級霊で、死後一気に霊団の指揮者の地位に着く話が出ている。
地上生活中は本人も思いもよらなかったので、天使から教えられて戸惑う場面がある。

肉体に宿ると、前生(地上での前生と、肉体に宿る前の霊界での生活の、2種類がある)が、シャットアウトされてしまうからである。


『続霊訓』に次のようなインペレーターの霊言がある。

偉大なる霊も、肉体に宿るとそれまでの生活の記憶を失ってしまうものである。
そうした霊にとって、地上への誕生は、一種の自己犠牲ないしは本籍離脱の行為 と言ってよい」

そうした霊が死後向上していき、ある一定の次元まで到達すると、前生のすべてが(知ろうと思えば)知れるようになる。
というのが、シルバーバーチの説明である。
まして肉体に包まれている人間が、少々霊能力があるからといって、そう簡単に前生がわかるものではないのである。


【たとえ分かっても何にもならない】

ところで、かりに人間にそれがわかるとして、いったいそれを知ってどうなるというのであろうか。

一回一回にそれなりの目的があって再生を繰り返し、そのつど、シルバーバーチの言うように"霊にかかわる要素"だけが持続され、歴史的記録や成功・失敗の物語はどんどん廃棄されてゆく。
ちょうど我々の食したものから養分が摂取され、残滓(ざんさい)は排泄されていくのと同じである。

そんな滓(かす)を思い出してみて、どうなるというのであろう。

それが歴史上の著名人であれば、少なくとも "人間的興味" の対象としての面白みはあるかも知れないが、歴史にまったく記されていない他の無名の人物 ― ほとんど全部といってよい ― の生涯は面白くもおかしくもない。
平々凡々としているか、波乱万丈であれば、たいてい被害者あるいは犠牲者でしかないのである。

人間的体験という点においては、何も、歴史的事件にかかわった者の生涯だけが貴重で、平凡な人生は価値がないというわけでは絶対にない。
その人個人にとってはすべての体験がそれなりの価値があるはずである。

が、人間はとかく霊というものを人間的興味の観点からせんさくしようとするものである。
シルバーバーチが本名を絶対に明かさないのは、そんな低次元の興味の対象にされたくないということと、そういうことではいけませんという戒めでもあるのである。