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スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

霊界通信で語られたイエスの最期

■ 霊界通信とQ&A



今日お借りするご本はこちらです。

霊訓 (下巻) ステイントン・モーゼス 著/近藤 千雄 訳

この本の入手先はこちらです  スピリチュアリズム普及会
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_library/sp-books/imp-teachings2.htm

霊媒であり著者であるモーゼスについてはこちらです ⇒ ウィキペディア

モーゼスがインペレーター霊から教えられた、イエスキリスト(ナザレのイエス)の最期についてです。

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霊訓 下巻 30節    P202より

主イエスの地上生活の終末のシーンもまた象徴的意義を秘めている。

それは敵意と侮蔑と迫害をあおるところの時代的偏見と闘う伝道者の宿命であり、気に入らぬ真理に対する地上的報復なのである。

イエスの生涯の記録を歴史的事実として理解できるそなたには、その悲劇的最期に至る一連の迫害の生涯が当然予想されるものであり、それ以外の生涯は到底あり得べくもなかったことに理解がいくことであろう。

恐れることを知らぬ革命家イエスの出現に危惧を覚えた卑劣なる学者たちは、民衆をけしかけて一勢にイエスを攻撃させた。
そうしなければ自分たちがその虚飾の姿を赤裸々に曝されることになっていたかも知れぬ。

尊大にして虚飾に満ちたパリサイ主義は、若しもパリサイ人をしてイエスに対する怨恨を抱かしめなかったならば、イエスがマグダラのマリヤ (イエスが売春を辞めさせた女性 ― 管理人) と収税吏を戒めた以上の厳しき言葉で糾弾されていたかも知れぬ。

見せかけのみの儀式主義に堕落し、金の力にて容易に地位と権力を獲得できた当時のユダヤ教は、もしもそうした地位と権力を有する者が、聖櫃 (せいひつ。トーラが納められていた ― 管理人) にさえ不敬をはたらく忌まわしきナザレ人を憎むべき人物に仕立てなかったならば早晩大革命が生じ、律法学者やパリサイ派教徒よりも収税吏や売春婦のほうが高き地位と権力とを手中にすることになっていたかも知れぬ ― が、こうしたことは到底有り得なかったであろうことは、そなたにも理解がいくであろう。

イエスの至純さと至善は怨恨を呼ばずにはおかなかった。
妥協を排する真摯なる態度は嫉妬心を惹起せずにはおかなかった。

その説くところの教義は余りに厳しく、一般民衆には付いて行けなかった。
その生活上の戒律は余りに霊的に過ぎ、放縦と安逸の時代にはそぐわなかった。

詰まるところ、そうした高度の訓えを受け入れる用意のない時代がイエスを十字架にかけたのであった。

空虚と不純の時代が、罪悪の首謀者たちの立てた恥辱の木にイエスを磔(はりつけ)にすることにより、至純至聖なる "真理の子" に報復したのであった。
そういう次第であった。

今なお、形而下的にはともかく、形而上的には多くの例証を見ることが出来る。
中には神の使者の活動の波がちょうど通過せし時代にその波に乗って時代相応の真理を説き、それが首尾よく世に入れられ、その功ゆえに名誉と賞讃を得た改革者がいた。
また中には、さらに多くの世俗的叡智と分別にたけ、より多く世の為に尽くした人物もいた。
が、そうした指導者は稀である。

大抵の指導者は、イエスの如く真理の代償として屈辱と恥辱の中に死を迎える。
真理を説ける指導者には死が与えられる。

が、その訓えには復活と新たな生命が与えられる。
そしてその指導者の姿がこの世より消えて始めて、その訓えの真価が理解される

その例は改めて長々と説くまでもなかろう。

キリストが十字架にかけられた時、そこには実に少数の同志しか居合わせなかった。
悲劇の底にありてもなお鋭き直感と情愛が変わることのなかった二、三の女性と、公然と信仰の告白をせず最も臆病でさえありながら、実は最も忠実なる側近であった隠れた弟子のヨセフとニコデモの二人のみであり、他はすべて逃走したのだった。

そして新しき真理の伝道者、新たなる福音の宣教師 ― 彼は今いずこに在りや。身罷(みまか)ったのである。

そして彼の説ける福音はいずこに在りや。
これ又どうみても葬られたとしか思えなかった。
それ故、誰一人として福音のこともイエスのことも思い出さず注意すら払わなかった。

しかしそれは、人間の性急なる判断であった。
かの埋葬場所の入口の蓋を取り除いたのは誰なのかは知るよしもなかった。

ただ時おり地上に新生をもたらす "霊" の力が石を取り払い、死せる肉体に生命を吹き込んだとのみ信じた。
それは実は天使の仕業であった。
それと同じ力 ― 完全に死せるものと思い埋葬せる肉体に新たな生命を吹き込める同じ力が、イエスの福音に生気を吹き込み、善悪さまざまな風説の中で育て上げ、ついに諸国にまで波及させ、当時の霊的真理の強大なる動力とならしめたのであった。

これを個々の革命家に当てはめてみよ。
辿るベき宿命は同じである。

神の真理として説くところがその時代の心に訴えようが訴えまいが、あるいは仮に訴えたとして、それが時宜を得たものとして喜んで受け入れられようが、それとも余計なことをする革新者のおせっかいと受け取られようが、真理は真理として受け入れられるべく闘いの道を歩まねばならぬ。
それが神の選別の手段なのである。

そして抵抗が大なれば大なるほど、それだけ真理普及に対する意気込みも大となる。
踏みつけられれば踏みつけられるほど、信念は深く固く根を下ろす。
その闘いの生涯がイエスのごとき終焉を迎えるか、あるいは信念の弱さ、または慎重なる配慮によりてその悲劇的運命が避けられるか、それは大した問題ではない。

真理の言葉そのものが、最後の勝利へ向けて、首尾よく闘争をくぐり抜けることが肝要なのである。
それはちょうど修行時代において孤独と瞑想の生活の中に誘惑者や敵対者と闘い、苦悩の中に身を修め、受難の末に勝利を手にしたのと同じである。

修行時代を終え、新たなる生命を携えて公的生活に入ったのちのイエスの生涯は、覚醒せる魂に訪れる変化の象徴であった。

この世に在りつつもこの世の住民とはならぬ生活 ― 地上への "訪問者" としてこの世の慣習に順応しつつしかもそれに隷属せぬ生き方を、イエスは示した。
常に、全ての霊的影響力に見られるかの最も強力なる原理、すなわち "愛の摂理" によりて鼓舞され続けた。
イエスがその姿を現わす時、あるいは何か事を為す時、それは常に愛に発していた。

そなたらの手に残された記録は乏しく、かつ誤謬に満ちているとは言え、その原理を示す事象は十分に盛り込まれている。

イエスは愛の摂理を成就し、そして相応しき境涯へと昇天して行った。
二度と御姿を拝することも、じかに接することも出来ぬ。
もはや形体を具えた存在ではない。
今や霊的恩寵の源泉であり、"影響力" としての存在となっている。
自らの発意によりて地上界を訪れる霊は、ことごとくその愛に鼓舞されているのである。

言い換えれば彼らの使命はイエスと同じ愛の原理に発しているのである。
人間的情愛にせよ、宇宙的博愛にせよ、その愛は高級霊界の存在を惹き寄せる。
そして果たすべき使命を終えれば、彼らもまた父なる神、普遍的宇宙神のもとへ帰って行く。

(省略)

全ての者が無条件に真理を受け入れる時こそ、その真理もやがて改められる必要が生じ、より深き真理が要求される時が到来しつつあるものと思うがよい。
それとは逆に、強烈なる抵抗の中にある時こそ、大いに意を強くするがよい。

何となれば、その産みの痛みによりてこそ頼もしき後継者が誕生し、その気力と精力とによりて抵抗を跳ね除け、神の規範を一層有利なる戦いの場へと導いてくれるであろうからである。

救世主イエスの誕生から復活への生涯の過程にはそうした趣旨が込められている。
これは永遠に変わることなき比喩である。

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