スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

(霊界からの通信記録) タイタニック沈没から始まった永遠の旅 その1


今日は、W・ステッド著 「タイタニック沈没から始まった永遠の旅」からお借りしてご紹介したいと思います。

この本も、存在は知っていたのですが、急に読みたくなって、探した探した(苦笑)。
ようやく手に入れて読めました(県内の図書館には蔵書があったのですが、購入を希望していたので)
しかも新品のようにきれいなコンディションで、とっても良心的な販売者さんから^^。

死後の変化のプロセスや地上生活で気をつけるべき注意点ですとか、あちらの世界の様子や暮らしについて詳細でわかりやすく書かれた通信記録だったという点で、この本は自分の中で1,2を争うものでした。
まさに通信霊の池上さん!(笑)
やはり元一流のジャーナリストだっただけあって、特にスピリチュアリズムのビギナーさんには、最高のテキストになるかもと思います。

これほどの貴重な本、復刊を心から願うばかりです(涙)。

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著者の ウィリアム・トーマス・ステッド さんについて ⇒ ウィキペディア

ではステッドさんの霊から、霊媒(チャネラー)を介して送られてきた通信(本文)を転載させていただきたいと思います。

タイタニック沈没から始まった永遠の旅

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五章 良心の声

この地上生活において、やっていいことといけないことについては、賛否両論が良く闘わされます。
やりたくても控えねばならないことがあるかと思うと、思い切りよく実行に移さないといけないこともある・・・・いったいなぜでしょうか?

”そんな小うるさいことにこだわっていたら、商売は上がったりさ” ―  そんなことを言う人もいるでしょう。
大っぴらには言わなくても、内輪ではそう言ってるに相違ありません。
なぜいけないのかが、理解できないわけです。
しかし、理由はちゃんとあるのです。
しかもそれは、常識的に考えれば、容易に理解できることなのです。

いささか堅苦しくなりますが、私はこれを因果律の問題として、位置づけたいのです。

宇宙の創造機構は、人間の想像を絶した緻密さをもって計画されました。
その究極の目的は、各個に、自由闊達な発達と進化をもたらすこと です。
そのための摂理は厳然としています。 不変絶対です。
各自は、良心という本能によって、今自分の行っていることが摂理にかなっているか・反しているか を直感しております。
交通取り締まりのお巡りさんのような人から、教わる必要はないのです。

もちろん、自分自身をあざむいて、”これでいいんだ”と主張することはできます。
しかし、そう主張しながらも、心の奥では ”本当はいけないのだ” という意識を打ち消すことができずにいます。

私はあえて申し上げます ― この事実に例外はない、と。
つまり、良心は必ず知っている ということです。

ところが大体の人間は、知らないことにしたがるものです。
これは深刻な意義をもつ問題であることを、認識してください。

この種の問題を、大抵の人は、”善悪” の観点からではなく、”損得” の勘定によって判断しております。
動機の善悪の区別がつかないわけではありません。 ちゃんと識別できるのです。
そして、事実、本能的には正確な判断を下しているのです。

ところが厄介なことに、人間は習性や損得勘定、社交上のメンツから、因果律が巡り巡って生み出す結果を考慮せずに、目先の結果にこだわってしまいます。
実に残念なことです。

が、死後の世界との関連からいうと、”残念” では済まされない、かわいそうな、あるいは気の毒な事態となってゆくのです。
不快な想い、辛い苦しみのタネを蒔いていることになるのです。

火炎地獄などというものは存在しません。
精神的苦悶という、自らがこしらえた地獄が待ち受けているのです。

人間の自我、ないしは霊は、精神の中に存在しています。
言い換えると、霊が脳という器官を通して意識活動を始めた時から、徐々に精神が構成されてまいります。
その脳は、生理学的に解剖しただけでも、科学者にとって ”最後の秘境” ともいうべき驚異の世界ですが、これを自我の道具として観察した時、いっそう微妙で複雑で、謎は深まるばかりです。

たとえば、精神があらゆる思考と行動の原動力であるという事実は理解できます。
が、その思考と行動の全てが精神に ”書き込まれている”、つまり記憶されているそのメカニズムはどうなっているのか?と、到底理解できないでしょう。

仮にあなたがどこかの店で、ツケで買い物をします。
すると何日かして請求書が届きます。
それを払い込みます。
するとあなたは、その時点で、その買い物と支払いに関する一切のことを忘れます。
ところが、その店にはすべての記録がいつまでも残っています。
精神の記憶も同じです。
あなたの意識にはのぼらなくても、内容のいかんにかかわらず、すべてが記憶されているのです。

その ”勘定の決済日” が死後に訪れる というわけです。
 
支払いを済ませば、帳簿の方はそれで用がなくなり、安心です。
が、記録そのものは、その後もずっと残り続けます。

さて、ここでしっかりと銘記していただきたいのは、精神とその産物、すなわち思念は、地上に存在するあらゆるものを始動させ、創造していく原動力だということです。

物的なものも、元はと言えば精神的なものに発しております。
それもう説明するまでもないでしょう。
そびえたつビルも、最初は思念として、設計者の頭の中に存在を得ていたのです。

思念は、分類すればいろいろなタイプに分けることができるでしょう。
昼の食事は何にしようか?といった他愛のないものも、やはり思念の一つでしょう。

が、価値あるものを生み出してゆく建設的な思念と、反対に、害を及ぼす破壊的な思念とがあります。

大切なのは後者のほうです。
ただし、食事だの、衣服だのといった、純粋に個人的なものも、確かに他愛ないものではあっても、それが建設的な思念を妨げるほどになると、破壊的な性格を帯びるようになります。


地上生活でなめさせられる辛酸の大半は、自分自身の間違った思考が原因です。

もちろん、生まれ落ちた境遇が一人ひとり異なることは私も百も承知でそう述べております。
両親から不幸と不遇を引き継いで生きる人は、恵まれた条件のもとに生を受ける人よりも生活が辛く、楽しみが少ないにきまってます。

しかし、そうした地位や生活条件の相違におかまいなく、思念の摂理は平等に働きます。
どちらが 有利 とも言えないのです。

それを分かりやすく説明してみましょう。

~転載はここまで~

長くなりましたので続きはまた明日。
(次回、人間が今のうち少しでも早く実践し始めた方がいいとおぼしき重要な情報が出てきます)