スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

どんな霊も天使もあがめる必要はない。


こんにちは。

今日もスウェデンボルグの著書から、お借りしたいと思います。
エマニュエル・スウェデンボルグについて(ウィキペディア)

【参考にさせていただきました】
スウェーデンボルグの霊界日記―死後の世界の詳細報告書


【どんな霊も天使も崇める必要はない】  1748年6月12日の日記

次のことが、霊的な観念によって(私に)認められたため、それが霊たちによって語られた。
すなわちそれは、霊たちはけっしてあがめられてはならない、ということだ。
なぜなら彼らは、人間やほかの霊たちに恐れられ、絶えず崇められることを欲し、しつこくそれを強要し、それが彼らの最大の欲望だからである(※これは、コンタクトしてくる霊の中には、上級霊だけでなく低級霊もいて、けれどもスウェデンボルグは全部ひっくるめて「霊」と記したと思われます。 こうしたことを特に求めるのは、霊格が低級な証だからです。またこれは私的な日記だったので、そうした違いがわかっていた前提でしていたとも推理できます)

しかし、彼らの(生命の)状態は絶えず変化しているものである限り、彼らはみずから(の力で)考えることも語る事もできず、また何ごとも思い出せないし、罰することも報いることもできない。

それゆえ彼らはあがめられるべきではない。
(※ 宗教的な「キリストや神様」のことではなく、宇宙の秩序法則、真理のことと思います)だけがあがめられるべきである。
なぜなら、主だけが、個々のあらゆるものを知り、天と地をあまねく治め、叡智と善を創られるからである。

同様に、天使も礼拝されてはならない。
崇拝されるなどはもってのほかである。

なぜなら、彼らの行う善は、彼らのものではなく主のものであり、このことを天使はみな自認しているからである。
そうでなければ、彼らは天使ではない。
もっとも、彼らが主のものである限り、彼らは尊ばれはするのだが。



聖霊とはなにか - 聖性は神にのみ帰せられること】  1748年3月14日の日記

何らかの霊に感覚的に動かされる人間は、誰であれ、とくにその霊がその人間に語りかける場合は、それは聖霊だと考えてしまう。
狂信者たちはみなこう思いこむ。

それにもかかわらず、彼らがその時 ”聖霊”と呼び、あがめ、礼拝さえする霊たちは不浄な霊たちであって、こうしたことを好む霊たちは、自分たちが聖霊だと思っている。
このことは(この日記の)随所に書いてきた。

しかし主に属する霊、すなわち諸天界にいる者たちは、清浄であると呼ばれたがらない。
このため彼らは「私たちは聖霊である」とはいわず「主だけが私たちの聖性である」という。
なぜなら、預言者も語っていると思うのだが(ヨブ記15章)、天界(でさえ)清らかではないからである。

それゆえ、「聖霊」(という言葉)によって、天使や霊が意味される時は、彼らは礼拝されてはならず、ましてやあがめられてはならないのだ。
というのは、彼らはみな、元来は地上の人間だったのであり、その後天界(※上級の霊界)に入れられたからである。
天使たちは、低次の種類の霊たちを通して人間と話すが(※そうしなければ、お互いの波動が違い過ぎて、会話が届かないからです)、"神聖性" に属するものはことごとく、主のものである。

不浄な悪霊たちは、私が彼らを聖霊として認めたがらないと、非常に腹を立て、私を罰すると脅した。
彼らは(※ スウェデンボルグが霊と会話ができ始めた)始めの頃、そのように脅してきたので、私は彼らが聖霊ではないと分かるまで恐れていた。

真に天使であり、浄められた霊である者たちは事実、自分たちはけっして聖霊とは呼ばれたくないとはっきり言っている。
なぜなら、聖性は主だけのものだからである。



【悪い人間と善い人間を特徴づけるしるしについて】  (日付不明)

悪人を特徴づけるしるしは、その思考や言葉にふくまれる観念が、善から始まるのがふつうだが、結局は悪に終わる、ということだ。

他方で善人のそれは、その思考や言葉にふくまれる観念が、悪から始まる可能性があるにしても、最後は善に終わる。
なぜなら、悪人においては悪が普遍的に支配しており、そのため観念は悪の方へと揺り動かされるが、善人においては善が普遍的に支配している。
よって、彼らの観念は善の方へと揺り動かされるのだ。

ここからは、こちらの本からお借りしました。
エマニュエル・スウェデンボルグの霊界(3)


人間はつねに、善悪ふたつの霊からの影響を受けているが、善霊の力が優っているうちは、悪霊の影響は問題にならない。
また人間は悪霊から少し位"ちょっかい"を出されても、それだけでは悪に染まらない。

本当に悪に染まるようになるのは、彼が意志のレベルでその悪を受け入れやすい状態になった時である。
比ゆ的にいうと、指先で悪に触れても問題にはならない。
しかし、それが指先を通って心臓にまで達すると、初めて彼は本当に悪に染まる。
心臓というのは彼の意志、彼の気持ちである。

さてここで常に善霊や悪霊の影響下にある人間が、心臓まで悪霊の影響を達せさせないために必要なのは何か。
それは、「そうはさせない」という、意志の力なのだ。

そして、その意志の力を、本物の意志の力や気持ちにしているものは「行動(この場合は善行)」なのである。
信仰や信心のみでは、とても、この意思は本物にはならない。

人間は自分の足で一歩一歩と歩いて、自分で天国に行かなければならない。
たとえ ”キリスト”が助けてくれるとしても、彼は手を取ってくれるわけではない。
一緒に歩いていってくれるだけである。

「一歩ずつ歩いていく」ということは、正しい意志と認識を、少しずつ、自分の力で積み重ねていくということである。