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スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

今生での試練は生まれてくる前に決めてくるのか?



よく、「私たちは地上に再生する前に、今生での生き方や人生を選んで生まれてきている(別名 宿命、魂の設計図、ブループリントなど)」、「一連の試練や出会いは再生前にすでに決めてきていて、なので今現在の試練も予定通りである」といった話を耳にします。
(※ここでの「運命」とは、自分で動かす=作ったり変えられるもの、そして「宿命」は性別や体質や家系と言った死ぬまで変えられないものを指しています)

けれど、私はその考えに、半分は同意できますが、半分は否定的です。
再生前に計画してきたものや目標は、もっとおおざっぱで、大まかなテーマだと思う(感じる)のです。

□□何年の何月にどんな人に出会ってどんなことが起きて、どんな結果になるか。

そうしたことまで細かく決めてきたとは、私は決して思えません。
なぜなら、地球には、自分の霊格を高めるために生まれてきているから、です。
そしてもう一つの目的が、過去(生)での失敗や後悔をやり直す(カルマの解消)になります。
人類に共通する、地球に生まれてきた目的は、この2つです。

さらに、個人の目的は、まずは再生前に自分の思考や態度、行動の良くない所(霊格の未熟な所)を十分に自覚させられ、もう一度地上に再生することによって修正もしくは向上させる ことになります。

それには試練が欠かせません(単純に、大変な状況に陥らないと、人は真剣で本気になれないから、だから試練の体験が必要になると思います)。

そういう意味で、「乗り越えられない試練は与えられていない」と言うことになると思います。

ただ、では具体的にどんな事柄・試練が起き、どんな結末になっていくか?
それについては、その時々の流れ(運勢)によって詳細が決まっていくと思われます。


私もそうですが、辛いことが起きるとそれから逃げたくなり、そして一日も早く解決させ、楽になる事ばかりを考えてしまいます。

ですが、スピリチュアリズムの観点からすると、「今こそが、自分の弱点や人生を修正または克服し、成長できるチャンスだ」ということで、そうした出来事から「私は何を学ぶべきか?」と捉えるのが、本当の試練との向き合いかたと思うのです。
なぜなら、繰り返しになりますが、霊的成長のために、人間として生まれてきているからです。

どんなアクシデントや不運が起きたか?ばかりにこだわるのは、霊的成長にはほとんど意味がありません。
そうではなく、どんな内容のアクシデントや不幸に見舞われようが、そこからどんな教訓を得て、学べるか、知恵を着けられるか?が肝心な主題になります。

そのような地上再生の "決まり事" がわかると、試練や苦悩にいたずらに悩まされることも、自ら苦悩やダメージを深めることもなく、淡々とスムーズにやり過ごすことができるでしょう。

ちなみに私の場合、こうしたことに気づけ、確信を得られたのは、数秘術のおかげです。
(他の占術でも、使い方がまっとうなかたたちは、おそらく同じ考えでらっしゃると思います)

1の時はこういう生き方を学ぶ・経験する、という風に解釈していくのですが、それは必ずしも「1だから結婚相手に出会える」とか、「1だから長く働けるような良い会社に就職できる」とか、そうした具体的な現象を予知するものではありません(ですから、未来予知的な占いや霊視は外れます)。

多くの方が、運 のとらえ方を誤ってらっしゃると思います。

出会いや出来事が起きるタイミングというのは、本人たちの意志や世の中全体の動きなど、個人の力だけではどうにもできない、複雑な要因が絡まって、偶発的に起きるものだと私は考えています。
ですから、何がどう起きるかどうか、そもそも生まれてくる前に予測するもしくは計画するのは不可能と思っています(もちろん今生においても、です。 ただし理性的に考えて先に予想できるケースを除いて)

それから、最初に書いたような考えを信じてしまうと、何か起きるたびに宿命や運命のせいにして諦めて、ご自分の人生や運命を自らの力で創造していく努力(そして霊格を向上させること)を怠ってしまうことになりかねない気がいたします。

つまり、かえって歯車が狂って、何もかもが上手く行かなくなる可能性がある、と思います。


では実際はどうなのでしょう?

調べてみましたら、世界三大霊訓の中の、カルデックによる「霊の書」(※高級霊たちからの霊界通信をまとめた本)にその答えがありましたので、ご紹介してみたいと思います。

今日の記事は、こちらの本からお借りしています。

霊の書 近藤千雄訳

※この本は自費出版ですので、こちらでしか購入できません
※潮文社さんからも、桑原啓善さんによる翻訳本が出ています。どちらも拝読してお
りますが、私は近藤先生訳の方が読みやすくわかりやすかったように感じます

著者のアランカルデックについて(ウィキペディア) → こちら



P134 【試練の選択】

――霊界でのさすらいの状態にある霊は、新たな物的生活に入る(再生する)前に、それがどのような人生になるかを予見できるのでしょうか。

遭遇する試練については自分で選択します。そこに霊としての自由意志の行使が認められます。


――すると罰として苦難を科するのは神ではないのですね?

神の裁可なくして何事も発生しません。
宇宙を経綸するための全法則・全摂理をこしらえたのは神なのですから。

あなた方人間の立場から見ると、神はなぜこんな摂理をこしらえたのか ―― 他に方法がありそうなものだが…と疑問に思うこともあることでしょう。

実は各霊に選択の自由を与えるに際して、神は同時に、その行為とその行為が生み出す結果についての一切の責任も担わせているのです。

霊が自ら選んで進もうとするのをさえぎるものは何もありません。
悪の道を歩むのもよし、善の道を歩むのもよし。

仮に悪徳の誘惑に負けて悪の道に入っても、もはや取り返しがつかないというようなことにはなっておりません。
しくじった人生をもう一度始めからやり直す機会が与えられます。

もう一つ申し上げておきたいのは、神の意志による業(※わざ)と、人間の意志による業とを截然と区別しなければならないということです。

例えばあなたが危機にさらされたとします。
その危機そのものはあなたがこしらえたのではありません。
神(※宇宙の森羅万象の秩序法則である前提の「神」です)が用意したのです。
しかし、その危機にさらされることを選択したのはあなた自身です。
その危機に遭遇することの中に霊的成長の手段を見出して自ら志願し、そして神がそれを裁可したということです。


――霊が地上生活で体験する苦難を自ら選択するということは、あらかじめ自分の一生を予知し選んでいるということになるのですね?

そういう言い方は正確ではありません。
全部が全部あなたが選んだものとは言えないからです。

あなたが選ぶのはどういう種類の試練にするかということで、実際に誕生してからの細かい出来事は、置かれた境遇でそれに対処するあなたの態度が生み出します。

具体例で説明しましょう。
仮に一人の霊が悪党ばかりがいる境遇に生まれたとしましょう。

当然その霊は、そういう境遇でさらされるであろう良からぬ人間関係は覚悟しているはずです。しかし、それが具体的にどういうものであるかは、いちいち予知しているわけではありません。その時その時の対処の仕方、自由意志の行使の結果によって決まります。


このように、霊は再生に際してはあらかじめ一つの人生航路を選び、その人生では大体かくかくしかじかの苦難を体験するであろうと予測します。
つまり人生の大まかなパターンを承知の上で再生してきますが、それがどういう形の人間関係や事件・事故となって具体化するかは、置かれた境遇や時の流れの勢いによって決まる性質のものなのです。

もっとも、その中には人生の方向を決定づける大きな要素がいくつかあり、それはあらかじめ承知しております。
別の例えで言えば、目の前にでこぼこ道が横たわっているとします。
用心しながら歩かないと転びます。
しかし、その道のどのくぼみで転ぶかが決まっているわけではありません。
細心の注意をもって歩めば転ばなくても済むかも知れません。
ところが一方で、足もとにばかり気をつけていると、どこかの屋根の瓦が頭上に落下してくるかも知れません。
そうなるように宿命づけられていたのだと考えるのは間違いです。


――悪党ばかりがいる境遇になぜ誕生しなければならないのでしょうか。

試練には教訓が込められています。
ある霊にとってどうしても必要な教訓を学ばせるために、そういう条件をそなえた境遇に生をうける必要が生じるのです。

その際、正さなくてはならない欠点と、その霊が置かれる境遇との間に連携的調和がなくてはなりません。

例えば略奪強盗の衝動が沁みついている魂は、そういう境遇に再び放り込まれて、とことんその無情を味わう必要が生じる場合があるのです。



――では地上に邪悪な人間がいなくなったら霊は自分の試練のための条件が無くなることになりませんか。

結構なことではありませんか。
なぜそれが不服なのでしょう?
あなたのおっしゃるような世界はまさに高級霊の世界です。
悪の要素は一切近づけず、従ってそこに住まうのは善霊ばかりです。
地上界も一日も早くそういう世界になるように努力なさるがよろしい。



――完全を目指して試練の道を歩んでいる霊は、ありとあらゆる誘惑にさらされなくてはならないのでしょうか。自惚れ、嫉妬、貪欲、色欲、その他もろもろの人間的煩悩を試される環境に身を置かなくてはならないのでしょうか。

そのようなことはありません。
すでに述べた通り、霊の中には当初から順調なコースを歩み、そういう酷しい試練を必要としない霊もいます。
しかし、いったんコースを間違えると次から次へと誘惑にさらされることになります。

例えば金銭欲に目がくらんだとします。
そして思い通りの大金が入ったとします。
その際、その人の性格によってはますます欲の皮がつっぱり、放蕩の生活に入ってしまうことはあるでしょうし、困っている人々に気前よく施しをして有意義に使用することも可能です。

ですから、その人が大金を所有したからといって、それゆえに生じる邪悪性の全ての試練にさらされるということにはなりません。



――霊みずから試練として選択する時の規準はどのようなものでしょうか。

過去の過ちを償い、同時に霊性の進化を促進するものです。
その目的のためにある者はみずから窮乏生活を選び、酷しい環境の中で力強く生き抜く修行をします。
またある者は、財力と権力の誘惑の多い環境に生まれ、その誘惑への抵抗力を試す者もいます。
貧乏よりもこの方が危険です。
とかくそれを悪用しがちですし、それにまつわる邪悪な感情もどぎついものがあるからです。

さらには悪徳の栄える巷に身を投じ、その中にありながらも、あくまでも善を志向する決意を強化せんとする者もいます。



――自分の徳性を試すために悪徳の環境に自らをさらす者がいるとなると、同じ口実のもとにそういう環境に生まれて放蕩ざんまいをする者もいるのではないでしょうか。

確かにそういう者がいます。
しかし、それは当然のことながらよほど霊性の低い霊に決まっています。
しかも、そういう場合はそれに対する試練が自動的に生じ、しかも長期間にわたって続きます。

遅かれ早かれ彼は動物的本能に浸ることが悲惨な結果を招くことに気づきますが、気づいてもすぐにはその悲惨さから抜け切れず、そのまま永遠に続くかに思われます。

神は時としてそういう再生の仕方の罪の深さを思い知らせるため、その状態に放置するのです。そのうち自ら志願して本当の試練によってその償いをする決意をするようになります。



――試練の選択に当たってはなるべく苦痛の少ない人生を選ぶのが人情ではないでしょうか。

人情としてはそうでしょう。
しかし霊の観点からは違います。
物的束縛から解放されると錯覚から目覚め、まったく違った感覚で考えるようになるものです。



――完全な純粋性に到達するまでは、霊は何度でも試練に遭わなくてはならないのでしょうか。

理屈の上ではその通りですが、“試練”の意味が違ってきます。
地上の人間にとっての試練は物的な辛苦です。
が、霊がある一定の純粋性の段階まで達すると、まだ完全ではなくてもその種の試練は受けなくなります。
代わって今度は向上進化のための仕事が課せられ、その責務の遂行が試練となりますが、それには苦痛は伴いません。たとえば他の霊たちの進歩を手助けする仕事などです。



――試練の選択を間違えるということは有り得ますか。

自分の力量に余るものを選んでしまうことはあります。
その場合は挫折に終わります。
反対に何の益にもならない人生を選ぶこともあります。
怠惰で無意味な人生を送る場合です。
こうしたケースでは霊界に戻ってからそのことに気づいて、その埋め合わせをしたいという欲求を覚えます。