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スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

うわべだけ "スピリチュアル" な人たち

■ 真のスピリチュアリストになる



こんにちは。

常々気になっていたことがあります。
それはスピリチュアリズムの情報が、人間にとって都合よく解釈し直されて利用されていて、その結果、怠惰、物欲の促進、うぬぼれなど、霊的成長を妨げるものを助長してしまっている、ということです。

とはいえ、私自身もまだまだ未熟で、とてもじゃありませんがみなさんを教え導ける立場でもないことは、恥ずかしさと共にいたく自覚しています。
ただ、自分ができるできないは別として、誤り(真理)に気づくお手伝いをすることは赦されるかな?と思い、書かせていただいています。

良質のスピリチュアリズムを、共に学んでゆきましょう^-^


さて、今日の記事は下記の本からお借りしています。

霊媒の書  アラン・カルデック編 / 近藤 千雄 訳
自費出版ですので、こちらでしか入手できません

著者のアランカルデックについて(ウィキペディア) → こちら


本の中では、一般に、人々がどのように霊的真理(スピリチュアリズム)の受けとめているか、いくつかのタイプを取りあげて説明がなされています。
(さすがフランスのインテリさん。観察力は大変鋭く素晴らしいと思うのですが、少々手厳しくて辛辣な書き方をされている気もいたします)

そして今日お借りする部分も個人的には、昨今、「スピリチュアル」に傾倒していたり、お仕事をされているかたによく見られるパターンと感じました。

原書が出版されたのは1876年なのですが、こうしたことは人間の性(さが)ともうしますか、普遍的な課題であって、昔から変わらないものなのでしょうか。

と自戒と反省の気持ちもこめて。

P46

以上の二つのタイプは “唯物論者(※物質主義者)” と呼ばれる人たちであるが、これ以外に、唯物論者の範疇には属さず、どちらかというと目に見えないものの存在を認めるタイプでありながら、我々にとって同じように扱いがたいグループがいる。

それは、我がままな感情から信じたがらない人たちである。

彼らは物的快楽を味わいたいという欲望を多分にもっている。
だから、スピリチュアリズムを信じてしまうと野心や利己的欲望や見栄を捨てないといけなくなるのであるが、それは彼らにとっては困るのである。

そこでわざと真実を見まいとし、真理の言葉を聞くまいとする。
(※正統な霊的真理を学んでいないし、実践もしていない)

このタイプの人間は哀れに思ってあげるしか、為す術(すべ)がない。

さらにもう一つのタイプに、打算または不誠実さから反対する人たちがいる。

彼らはスピリチュアリズムの説くところをちゃんと知っている。
その正当性も知っている。
しかし、自分に都合のよい打算を動機として、表向きは否定論者の側にまわっているに過ぎない。

このタイプもひじょうに扱いがたい存在である。
為す術がないからである。

完全な唯物論者でも、思い違いをしている場合は、それを指摘してあげることによって考えを改めさせることができる。
少なくともそこには誠実さがうかがえる。

が、この打算から発している者は初めから反対することに決めてかかっているのであるから、議論の余地がないのである。

この種の人間は“時”を待つしかない。
そして、多分、痛い思いをしてようやく自分の打算的態度の間違いに気づくであろう。
しょせん真理の流れには抗し切れないのであるから、都合のよい打算にいくらしがみついても、最後は真理の激流がその打算といっしょに押し流してしまうであろう。

(省略)

スピリチュアリズムを新しいタイプの占いのように考えている人も少なくない。

(省略)

どちらかというと大半の者が霊的なものに関心があるのであるが、自分ではそれがいかなるものであるかについて確たる認識がないまま、ただ何となく魅力を感じている。
こういうタイプの人に必要なのは秩序だった説諭で、それが功を奏せば、夜明けの太陽のごとく、それまでのモヤモヤとした霧をスピリチュアリズムの教説が一気に晴らしてしまう。
すべての迷いから救い出し、本人もそれを歓喜して迎えるであろう。

(省略)

注目すべきことは、スピリチュアリズムという用語を知らず、その教義の何たるかも知らないのに、物の考え方、生き方、あるいは人生観に、本質的にスピリチュアリズムの精髄(エキス)のようなものがにじみ出ている人がいることである。
それが著作や言動にも表れていて、あたかも立派な師のもとで訓戒を受けているかの印象を受ける。
そういう人が、聖職にある人の中にも平凡な世俗の人の中にもいる。
詩人、説教者、モラリスト、哲学者、その他さまざまな分野に見られるし、古今を通じても同じである。


そうした例外的な人は別として、スピリチュアリズムを調査・研究して十分に納得して信じるに至った人にも、いくつかのタイプがある。

第一のタイプは言うなれば“実験派”のスピリチュアリスト。
心霊実験会に出席して(※心霊現象を実際に見たり体験して)その真実性を信じるようになった人であるが、興味は現象面に限られていて、スピリチュアリズムとは不思議な現象を研究する学問である、という認識にとどまっている。

第二のタイプはそうした現象の裏に思想的にも倫理・道徳的にも高度なものがあることに気づいてはいるが、それを実生活とは切り離して捉え、人間性との関連も稀薄、ないしはゼロの人。
強欲な人間は相変らず強欲であり、高慢な人間は相変らず高慢であり、嫉妬深い人間は相変らず嫉妬深いままで、そこに内省というものが伴わない。
こういうタイプを“無節操派”と呼んでいる

第三のタイプはスピリチュアリズムの教義の道徳性の高さを称賛するだけにとどまらず、それを日常生活で実践している人たちで、これが本物のスピリチュアリストというべきであろう。
地上生活が束の間の試練であることを納得し、一刻(とき)一刻を大切にして善行に励み、自己の悪い面を抑制し、死後の霊的生活に備える。

最後のタイプは“急進派”。
どの世界にも急進派はいるもので、スピリチュアリズムにも、熱心ではあるが思慮分別に欠けるために、結果的には誤解されるもとになっている人がいる。
こういうタイプの人は日常の人間生活においても信頼されていないから、こういう人がスピリチュアリズムを吹聴してくれると、スピリチュアリズムの拠って立つ大義が台なしになってしまう。

(省略)

霊的真理を正しく理解した人は自然に善行に励むようになるものである。
苦しみの中にいる人に慰めを与え、絶望の淵に沈んでいる人に希望を与え、道徳の向上に役立つ仕事に進んで協力する。
そこにその人たちの使命があると同時に、生きる喜びを見出すのである。
するとそこに自然発生的に真の幸せのムードが漂うようになる。

そのムードに影響されて頑迷な否定論者は自分の孤立した生き方に気づく。
そこから内省が始まって、真理の光へ向かって進む者と、なおも意地を張って黙りこくる者とが出てくる。