スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

霊界通信から ー 自殺をするとどうなるか(1)


霊界通信から ー 自殺をするとどうなるか(2)
霊界通信から ー 自殺をするとどうなるか(3)


『個人的存在の彼方』 Jカミンズ著 近藤千雄訳 より(絶版)

f:id:kabbalah-suuhi358:20150921210813p:plain

P86  自殺

我々霊界の者が地上の人間に、自ら命を絶つことだけは絶対にしないようにと警告するのは、死後ふと我にかえった時に、『死んだのは肉体だけで自分はまだ生きている』という事実を知った際、自殺当時の強い絶望と恐怖、後悔、幻滅感の感覚が一段と激しく増幅され、ひっきりなしに本人を襲ってくるからです。
これはまさに地獄の苦しみです。

中には、自分が死んだことに気づかない人もいます。

いずれにしても、自殺した場合は、自分を死に追いやった陰湿な気分が、まるでかすみや雲のように当の本人を覆い、するとそのもやの中からその霊を救い出すのは、霊界にいる霊たちにとっても至難の技で、時間がかかってしまうのです。
本人の激しい感情的な思念のエネルギーが妨げとなってしまい、すると助けてあげようにも為すすべがなく、どうすることもできません。

その場合そうした障害を取り除けるものは、本人の努力と自制心、そしてなにより心の底から発せられる救いを求める声と祈りのみ、になります。

やっかいなことに、自殺した人(霊)は、精神が錯綜してしまっています。
それは彼の意識のすべてが、"内向き"になってしまっているからなのです。
さらに、なぜ自殺してしまったのかと、自らを責めます。
ですがそうして自分を責めながらも、心の片隅では「自殺に追い込んだのは自分を取り巻いていた事情のせい」にしています。

またそれに加えて不気味な「死にたがる」思念が、自ら、邪悪な低級霊 たちを呼び寄せてしまっているのです。
こうした霊的波動の低い低級霊たちは、自殺志向といった本人の低級な思考意識に簡単に感応(引き寄せ。共鳴)します。
そして執拗に本人に憑いては、そそのかし、悩みをますます深め、戸惑わせ、不安にさせ、苦しめては喜びます。

(近藤先生の訳注)
俗に死神と呼ばれているのはこれを言い、ハゲワシが死にかけた動物の死臭をかぎつけて集まるように、死期の近い人間、あるいは自殺を考えている人間の周りに、魑魅魍魎(ちみもうりょう)がやってくる。
そして死体から発散される、エクトプラズムの臭気をあさる。
霊界からの通信で、土葬よりも火葬を勧めるのはそのためである)


ただし、例外もあります。
それは、他人のために、自らを犠牲にし、絶命した人のケースです。

この種の "自殺" には、その思いつめた最後の精神状態には高潔な誠意があり、そのおかげで、病的な自殺と異なり、意識は「外に向かっている」からです。
そのため、死後、肉体から抜け出て(幽体になる)時も、普通の死のケースと変わりなく、自然な速度で無理なくゆっくりと行われますし、本体の霊にも苦悶の様子は見られません。
むしろ満ち足りた気分に浸っていて、絶望感や自己れんびんのような感情は全くありません。

なので、邪悪な魑魅魍魎たちも近づくことができず、また本人も奇怪な幻に怯えることもありません。

また、弁解の余地がない動機から自罰的な自殺をした人の場合は一般に、しばらく暗闇の中に居続け、それから幽界の低い界層へと連れていかれます。
そしてその界層にいる間、どういう体験(教育)をさせられるかは、その人の性格や地上で送ってきた生活の内容によって、一人ひとりが異なります。
もしも、先に自殺した霊に憑きまとわれそそのかされて自殺してしまった場合は、やはり一時的に暗闇の中に置かれますが、ただ自殺した罪への責任を取らされるのは、そそのかした霊の方になります。

と、このように、自殺者が死後、どのような罰を受けることになるかは、発端や動機によって変わります。

ここで一言付け加えておきたいのが、急死のケースです。
人にもよりますが、この場合は比較的スムーズに、新しい霊界の環境になじんでゆけます。

人生真っ盛りの時期に突然地上を去った場合、寿命を全うした場合よりも、中間境(死後、自分と霊体がなじんで落ち着くまで休む境涯。その後、天国のような場所に移動して本格的な霊界生活が始まる)での戸惑いが長く、実際には自分のいる辺りに光輝く世界が同じに存在していることにも気づきにくいのです。



霊訓 下巻  WSモーゼス著 近藤千雄訳

f:id:kabbalah-suuhi358:20150921211846p:plain
  
31節

(※ 自殺をしたモーゼスの友人の霊について、モーゼスの背後霊団のリーダーであるインペレーター霊が、自動書記で語ります。読みやすいように修正しています)


あの状態を誘発したのは彼自身である。

彼の場合は遺伝的な精神病のせいで判断が誤ったのではない。
自分勝手な怠惰のせいである。

彼は自身の手で生涯をご破算にした。
悲しみと恥辱にまみれた終焉であり、彼を知る身近な人々の心をも傷つけることになった。

シルバーコード(魂の緒) が切れた時、彼は暗黒と苦痛の中に自分を見出した。
生命の糸が切れても当分肉体から離れることが出来なかった。
自ら殺めた肉体が墓地へ葬られた後も、そのまわりを漂っていた。
意識がないまま、自ら動く力もなく、衰弱し、傷つき、困惑していた。
落着く場がなかった。

一面暗闇に包まれ、その暗闇の中に、彼と同じように自ら人生の破滅を招き、孤独の中に閉じ込められた同類の霊がぼんやりとした姿で次々と表れる。
そしてこうした霊たちが近づくと、半醒半夢の彼の不快さは一段と強化されていく。

その悲劇を少しでも和らげ、彼の魂を癒すための手段が講じられることになったのは、彼の良心の苛責による初めての身震いが天使に届いた時だった。
暗闇の中で良心が目を覚ました時、天使はすぐさま彼に近づいて、麻痺していた彼の良心の回復を促し、悔恨の情を目覚めさせるための手段を講じた。

見た目には残酷に映るかもしれないが、天使はあえて彼が自分が惨めな状態に置かれていることを気づかせ、犯した罪の深さを映像として眼前に写し出す手段に出たのである。

悔恨の門をくぐり抜けずに、いかなる魂も、安住の地へは辿り着けない。
そのため、苦痛という犠牲を払ってでも彼の良心の回復を促さなければならなかった。

最初のうちはそうした努力は効を奏さなかったが、そのうち次第にある程度まで罪の意識を目覚めさせることに成功し、今は彼は、嫌悪さえ覚えるようになったその悲劇から抜け出る道を手探りで求め始めた。
が、それでもしばしば元へ引き戻されたりもした。
邪霊が周りを取り囲んでは彼をそそのかすのである。
が、そうした経緯の中にも彼の罪に対する当然の報いが容赦なく計算されていたのである。
霊たちはそれとは気づかぬ。
彼らはただその低劣きわまる本能の赴くままに動いているに過ぎぬ。
が、その実、彼らも因果律の行使者なのである。

彼が救出される道はただ一つ、何らかの善行への欲求が芽生え、その行為を通じて自らの救済に勤しむことである。
そこに辿り着くまでには悔恨と不愉快な労苦の道を旅しなければならない。
それなしでは他に、己の魂が清められる道はない。
利己主義は自己犠牲によりて拭わねばならぬ。
怠惰は労苦によりて根絶せねばならぬ。
彼の魂は苦難によりて清められねばならぬ。
それが向上進歩の唯一の道である。

しかも、回りを取り巻く誘惑――向上せんとする魂を挫折させんとする邪霊の囁きと闘いつつ歩まねばならぬ。
言うなれば“火の洗礼”を受けつつ進まねばならぬ。
これを罰というのである。
それが、他のいかなる手段によりても得られぬ、天国への唯一の道なのである。

むろん天使の援助の手はかたときも控えられることはない。
向上せんとする霊を援助し、挫折しかける霊を元気づけることが、彼らにとりて光栄ある使命なのである。

とは言え、たとえ慰めることは出来ても、当人の痛み一つたりとも代わりにあがなうことは出来ない。
背反の天罰をわずかであっても和らげてやるわけにはいかない。
代償として支払うべき余徳などもない。
友人といえども彼の重荷を肩代わりすることは出来ないし、疲れ果てた肩からそれを下ろしてやるわけにも行かない。
衰え行く精力を補い、扶助するための補助的援助は与えられても、その重荷はあくまでも罪を犯した本人が背負わねばならぬ。

これは、無為に過ごしてしまった人生への、避けがたい天罰である。

かすかに向上心が芽生えはじめた彼に、援助の力の授からんことを祈るがよい。
光が暗闇を照らし、迷える魂が天使の働きかけによりて慰められんことを祈るがよい。
彼の病にとってはそうした祈りこそ最良の薬なのである。


Homepage◆◆カバラ数秘術のBlog