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スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

偽りの愛と正義



エリザベス・キューブラー・ロス博士がご自身の半生を書き記した自伝から。

あれほどの犠牲を払って、縁もゆかりもない人たちを、親身になって助けようとしていたのに。
今にすれば、彼女のしていること、着目点、発想は良いことで、誤りではなかった。
エイズは空気感染しないし、今では彼女が始めた(といっても過言ではない)ホスピスがあちこちに建てられ、社会的にも受け入れられています。
なのに、放火され、財産を失い、それでもまた立ち上がった矢先に病で倒れ・・・。
それにそもそもお若いころからずっと、社会的に困難だったり弱い立場に置かれた人たちを、それこそ命がけで助けてこられました。
なのに、最後は全財産を失い、しかも病で身動きが取れなくなって。
どれほど無念で、悔しかったことでしょう。
「私が何をしたんだ!?」って、怒りをあらわにしたくなるのも、わかる気がします。

ロス博士は、病に倒れてからの言動のせいで(隠し立てせず自分に正直だった)、今でも、どうでもいいことを取り上げては侮辱や中傷がされているのを見かけたことがあります。

なら、そういう自分は、どれほどのことをしてきたの? 彼女の行為や人柄を冒とくできるような生き方をしてきたの?と私も反論したいくらいです。
彼女こそ本物の愛を知る人、それを語るに値する人と、私は思います。

もちろん、実際には、そのようにされてもしかたがないようなことをされてたのかもしれません。
スピリチュアリズムの心霊現象については、誤解があったように感じます。 けれど当時は情報が少なかったので、それもやむを得ないことだったと思われます)
けれど、世間から見捨てられ、置き去りにされてる人たちを率先して助けようと尽力されてきたことは紛れもない事実。
だからこそ、亡くなられて10年以上が過ぎた今でも、影響力をお持ちなのだろうと思います。

しかし、「正しいこと」を他より先んじて知っている聡明な人ほど、いつの時代も嫉妬されたりひがまれたり。
そうして目のかたきにされ、仕事や活動の邪魔をされ、しまいにはつぶされてしまうという、延々と繰り返されてきた世の不合理さ。

いったいいつになったら終わるんでしょうか。



人生は廻る輪のように (角川文庫)

はじめてエイズ患者と出会った時、わたしにはほかに選択の余地がなかった。
生と死のはざまで味わう最大の苦痛に対処する方法をその人たちに伝えるために、毎年、40万キロもの旅行を続け、各地でワークショップを開かずにはいられなかった。
晩年におよんでは、やむにやまれぬ思いでヴァージニア州の田園地帯に300エーカーの土地を買い、自営のヒーリングセンターを開設した。
エイズに感染した乳幼児たちをそこで養子にむかえる計画を立てた。
そして、思いだすのもつらいことだが、その田園から鞭をもって追われた。

1985年、エイズ感染児を養子にするという意向を発表した直後に、わたしはシェナンドー谷でもっとも忌むべき人間になりさがった。
やむをえずその計画を放棄したあとでさえ、脅迫者たちは私を追いだすために殺人をも辞さない卑劣な行為をとりつづげた。
わが家の窓は銃弾で撃ちぬかれ、家畜たちが撃ち殺された。
美しい土地での静かな暮らしは、打ちつづく脅迫によって惨めで危険なものになった。
だが、それはわたしの家だった。
わたしは頑強に引っ越しを拒んだ。


(その時の詳しい出来事 - 本の後半から引用

周辺の住民が計画を阻止しようとし、ひっきりなしに電話が鳴っていた。
あとからあとがら手紙が舞いこんできた。
エイズの子どもはよそにつれていけ」 「おれたちをエイズに感染させるな」

地域の人たちは大部分が「よきクリスチャン」を自称していたが、わたしにはそうはみえなかった。
エイズ感染児のためのホスピスをつくるという計画を発表した直後から、ハイランド郡の人びとはそれに反対していた。
エイズについての知識もないままに、恐怖だけをつのらせていた。

ヨーロッパ旅行で留守にしているあいだに、以前わたしが解雇した建設労働者のひとりが戸別訪問をしてエイズにかんするデマをまき散らし、計画に反対するための請願書に署名を集めていた。
その男は人びとに「あの女にエイズをもちこまれるのがいやなら、反対の署名をしよう」と訴えていた。

1985年10月9日、その問題をめぐって町民集会がおこなわれた。
人びとは一触即発の状態だった。
夜の集会であるにもかかわらず、2900という郡の人目の半数以上がつめかけ、郡庁所在地モンタレーにある小さなメソジスト教会に入りきれないほどだった。
エイズ感染児の養子計画を発表するまで、わたしは人びとからあたたかいことばをかけられ、地域の名士として敬意を払われていた。
しかし、その夜、教会に入っていくと、かつては笑顔で手をふってくれた人たちが嫌悪と憎悪の表情でわたしをむかえた。

(略)

それ以来(説明のための集会後)、わたしは格好の標的になった。
町に買い物にいくと、「疫病神!」という罵声を浴びた。
毎日、脅迫電話がかかってきた。
「おまえの好きなエイズのガキのように死ぬことになるぜ」
農場の芝生では、極右のクー・クラックス・クランが攻撃の合図である十字架を燃やした。
家の窓が銃弾で割られた。
いちばん手を焼いたのは、でかけようとするたびに車のタイヤがパンクしていることだった。
へき地に住む者にとって、それは手足をもがれるにひとしいことだった。

ある晩、わたしは納屋に身を隠して、門の近くに置いたトラックをみはることにした。
夜中の二時ごろ、6台のピックアップ・トラックがあらわれた。
徐行しながら門のそばまでくると、一台のトラックの積み荷が門のまえに捨てられた。
大量のガラスの破片と釘だった。
負けてなるものかと奮起したわたしは、翌日、門のまえの通路に大きな穴を掘り、家畜脱出防止溝をとりつけた。
その金属製の格子なら、ガラス片平釘が隙間から穴に落ちるぱずだった。
パンク騒動はそれで終わった。
しかし、そのささやかな勝利は、ヘッドウォーターズにおけるわたしの人気もしくは不人気になんの影響ももたらさなかった。

一年後、わたしは闘いを放棄した。
周囲の圧力があまりにも強すぎた。



わたしは別の農場に移り住んだ。
すべての夢をかなえるに足る農場だった。
出版と講演で得た収入をぜんぶそこに注ぎこんだ。
自宅を建て、近くに来客用の宿泊施設を建て、農場スタッフの宿舎を建てた。
ヒーリングセンターを建て、そこでワークショップをひらいた。
消耗する旅行のスケジュールは大幅に楽になった。
エイズ感染児たちを養子にするという計画が浮かんだのはそのときだった。
たとえ余命がほんのわずかでも、子どもたちはその美しい自然に囲まれた生活をたのしんでくれるはずだった。

わたしの人生。
わたしのたましいがそこにあった。

そして、1994年10月6日、わが家に火、が放たれた。
(火事の翌日に消防士、捜査官と私立探偵らによる調査が行われ、キッチンと、外に積んであった薪から同時に発生していることから、火災の原因は「放火の疑いが否定できない」と告げられたそうです)

家は全焼した。
資料も原稿も宙に消えた。
もてるものすべてが灰燼(かいじん)に帰した。
家が火の海につつまれているという知らせを受けたのは、帰路の飛行機に乗るべくボルティモア空港を小走りで急いでいたときだった。
携帯電話の先の友人は、まだ家に帰るなと哀願した。
しかし、わたしはそれまでにも両親や知人から「医者になるな」「瀕死の患者と面接するな」「刑務所にエイズホスピスをつくるな」といわれつづけてきた。
そして、そのつど、人に期待されることより自分が正しいと感じたことを頑固に実行してきた。
そのときも同じだった。

だれだって生きていれば辛苦を経験する。
つらい経験をすればするほど、人はそこから学び、成長するのだ。

飛行機は着陸し、友人の車の後部座席に乗りこんだ。
車は真っ暗な田舎道を猛スピードで走った。もうすぐ夜中の12時になるところだった。
家まで数マイルを残すあたりから、夜空を焦がす紅蓮の炎と煙、がみえた。
それは漆黒の闇のなかに恐ろしげな勢いで立ちのぼっていた。
大火であることはすぐにわかった。

あけがた近く、わたしは来客用の宿泊施設でやすむことにした。
コーヒーをいれ、煙草に火をつけ、焦熱地獄と化したわが家が呑みこんだ宝物について考えはじめた。

胸がつぶれる思いだった。

父が保存しておいてくれた何冊もの少女時代の日記帳、論文、備忘録、死後の生にかんする研究用の二万件におよぶケースヒストリー、先住アメリカ人美術のコレクション、アルバム、衣類……すべてが消えた。
まる一日、ショックから立ちなおれなかった。
どう反応していいのかがわからなかった。
泣くべきか、叫ぶべきか、神を呪って拳をつきあげるべきか、それとも非情な運命の狼籍に茫然自失すべきなのか。


(そしてこの一年後、ロス博士は脳こうそくを発症、左半身がマヒしてしまいます。
そして懸命のリハビリを経て、仕事に復帰。
けれどその後もたびたび脳卒中に見舞われ、2004年、静かにこの世を旅立たれました)

エリザベス・キューブラー・ロス博士のご冥福を、心よりお祈りしたいと思います。