スピリチュアリズムのBlog

スピリチュアリズムの日々の実践を心がけておりますスピリチュアリスト兼カウンセラーのブログです。生まれてこのかた無宗教です。またいかなる思想的団体とも関わりがありません。単独で活動することを信条としています

『スピリチュアルに語る人』 には警戒しています。



昨日の記事で書き忘れたことがありましたので、追記します。

spiritual358.hatenablog.com


私は、やたらと 『エネルギー』 とか 『光』、『宇宙』、『神(さま)』 という単語を乱発して、世間や人に人生論や生き方を語る人たちやその話の中身には要注意!!と自分に言い聞かせて、警戒するようにしています。

落ち着いて考えてみると、どれも実体がつかめないものばかりですよね?
誰であっても簡単には真偽がどうなのかを確かめようがないという。

ということはどれほど自由に、ご本人の妄想(創作)を広げてゆけることか!
妄想なのか事実なのか、それに判断を下している(正当化したり決めつけている)のが本人だけ、というのが問題と思うんです。。

そもそもこの人には判断できる力(理性、知恵、利他愛)がおありではない。
私はそう思います。
だから誰がどう考えたって雲をつかむような話なのに、それでもその人は堂々と公言することに、戸惑いも(自分が人に迷惑をかける)罪悪感も恥ずかしさもなくできてしまうと思うんですね。

また、そういうものがわかるとおっしゃる人がいたら、その人は地球人レベルで「並みの人間ではない」はずです。
それくらいのことができる人なら、念で物体を作り替えられるほどの、超能力者でなければ、理屈の上でつじつまが合わなくなるのです。

また、神と通じられるほどの人がどうしてより格下の、世間の人の思いや考え(本音、気持ち)すら読めないんでしょう?(私はテレパシーで会話できる能力者と実際に会ったことがあります。ただその人は神とか宇宙がどうとかいう話は一切口にしませんでしたが。 なので他にそれができる人など存在しないとは思えません)

どうしてもっと、生活に困窮している人を助けようとしないんでしょう?
神自身もそれをしたがっているし、私たちに望んでいるのに。

その人は見た目や体裁にこだわっていませんか?
地球のセンスや嗜好と、宇宙レベルのセンスや嗜好とは、まったく異なっています。
ですから、宇宙寄りの視野や発想をもつ人は、地球レベルの流行やおしゃれ、センスとはズレがあって、関心や興味が持てないはずです。


それからその人は、一部の人たち(しかもそれぞれタイプや雰囲気が似ている。似たような価値観や個性)にだけしか、支持されていないのでは?
複雑でややこしくて、もっともらしい表現を羅列しているだけで、もしもそれらを子供にもわかるほどシンプルなものに言い換えたとき、中身や情報のクォリティは変わらず的をついているもの(真理)、でしょうか?
人を選ばず、心を揺さぶるもの、生涯にわたって使える有用なものでしょうか?

本当の意味で信頼できる情報や話というのは、万人受けするもの。
"受け入れる人" "共感する人" を選びません。

宇宙の愛を語れるほどの立場であるなら、著書を無料にすべき。
宇宙の愛は、『無料』 だから。
例えば、毎日サンサンと降り注ぐ太陽光に、私たちは対価を払ってます?
そうじゃないですよね?
宇宙の愛も一緒です。

そんな風に、『タダで』 手に入れたものに値段をつけて、ほかの人から料金を徴収し、そうして世間の平均以上に楽で裕福な暮らしをしている時点でその人には「宇宙の愛など語れる資格がない」です。
自分がどれほど恥ずかしいことをしてるのか、本当にそういう資格がある人ならば、知っているべきことをご存じないから、そういうことが平気でできるのです。

表現や語りがうまい(人をその気にさせるのがうまい)のと、本質的なことがわかっているかは、別の話です。
そこを見極めなければ、人生の道を踏み外したり遠回りしてしまうことになりかねません。


スピリチュアリズムでは名の知れたシルバーバーチなどの高級霊たちによれば、神=高級霊たちでさえ、その人個人の意識には干渉しないそうです。
(世の中のためにしたいことがあるときだけ、そのプロジェクトを進めるのに適任と思える人を選んで干渉します。 選ばれた人は、世の中をよくするための道具でしかなく、その人個人の人生が恵まれて豊かであるかどうかとは別な話です。霊訓のチャネラーでさえ生涯独身で、貧しくて、しかも若くして病に倒れ、闘病しながら亡くなられたかたもいらっしゃいます)

けれど低級な霊になればなるほど、干渉し、自分の手下にしたり、もてあそんではおろおろする人間を見て楽しんでます。
手下にしようとするのは、人からほめちぎられ、ちやほやされたいからです。


***


世の中に何を発信するかはその人の自由ではありますが、信じる、信じないは、受け取る側の自由や権利です。

信じるならば、それが「事実ではない。 誤りである可能性もある」ことを前提に信じ、もしも後で「やはり誤りだった」とわかっても、それは信じると決めた自分の過ちでもあります。

だまされた、あいつのせいだ、と100%相手を責めるのも間違い。

なによりこの失敗から学ぶべきことは、『自分の何がいけなかったのか? 再び同じ過ちを繰り返さないためにはどうしたらいいのか?』 ということじゃないかなと思います。

「こんな風に人をたぶらかす人がいる」ことを知るだけで納得してしまうのではなく。


昨今の社会状況はとてもシビアで、どなたも大変で、多くのかたが生きづらさを感じていても不思議ではないです。
ですから、ご自分の目の前の現実から目をそむけたくなり、逃げ出したくなる気持ちもわかります。

ただ、その際、逃げこむ先を間違えないほうがいいと思うんです。


甘い綿菓子のような、ふわふわしたユートピアのような世界にどっぷりつかってしまうと、ますます現実離れをし、心が弱くなります。
なので現実世界の生活がおろそかになってしまい、すると状況はますます悪化してしまいます。
花壇や畑も毎日マメに手を入れなければ、放置してしまえば、荒れていくように。

優れた師は、あえて、現実にとどまることを勧め、その前提でアドバイスやサポートをしてくれるはず。
現実から離れた異界にいざなおうとする師は、うかつに信頼すべきではないと思います。