スピリチュアル レッスン ー スピリチュアリズムの探究日誌

スピリチュアリズムの学びや経験から得たことや、自分自身の変化を記録してゆきます

寛容であること、欲すること、当たり前のこと、正義感と使命感、謙虚さ


こんにちは。

この辺りはまた一段と涼しくなりました。
一気に秋めいてきています。
お互いにうっかり風邪をひかないよう、気をつけましょうね。


さて。
久しぶりに小林正観さんの本を読んでいました。
10年ぶりぐらいに読み返したのですが、改めて、敬服したり共感する部分があり、今日は学びがてらそれらをまとめて書いてみようと思います。

ということで書きだしたら長くなってしまったので、正観さんの命については、数秘術のブログで、そして教えについてはスピリチュアリズムのブログにに分けて掲載することにしました。

よろしければどちらもご覧になってみてください。

kabbalah-suuhi358.hatenablog.com



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正観さんは、この世つまりこの三次元の世界に起きる問題を解決する方法は三つある、とおっしゃいます。

一つ目は、戦うこと。 相手と討論し、納得させたり屈服させ、その人を乗り越えるというやり方です。 個人的にはケンカも含まれる気がします。

二つ目は、逃げ出すことと逃避すること。 例えば会社を辞めたり、縁を切ったり、ですとか。

三つ目は、耐えて、我慢し続けること。


ところが、これらの他にあともう二つ、もっとハイレベルな、四次元・五次元的な解決方法もあると正観さんはいいます。

四つ目は、気にしないということ

五つ目は、気にならないということ。
つまり問題を問題として認識しない、感じないというやり方です。
ただ、これはその人の人格のありかたや高さに左右されます。
けれども、全ての問題の根源的な解決はこの方法で可能になる、とおっしゃいます。


私も正観さんのご意見には同感です。私も4番目、5番目を目指しています。
我慢を我慢と思わず、スルーできるようになること、です。


さらにこんなことも。
正観さんは仏教に造詣が深いかたなのですが、こんなこともおっしゃっていました。

キリストが『右の頬を打たれたら左の頬を向けよ』と言っているが、もしもブッタだったら何と言うだろうか?と。

正観さんの意見は、
『右の頬を打たれるような人にならないような日常生活を送りなさい、そもそも人から頬を打たれないような人になりなさい』
ということではないだろうか、とのことです。

つまり、問題が生じてから対応したり解決しようとするという順番ではなくて、そもそも最初から問題が生じないような日常生活を送ることが大切で、豊かで明るく幸福な人生への近道として、これがもっとも根本的な解決方法なのではないだろうか、ということのようです。



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この世では、試験の点数でも営業成績でも、数字化した目標を追いかけて行く。
その場合もし100が200になって到達したら、欲が出て、次は300を望むようになる。
そうして限りなく上の数字を追い求めようとする。

けれどどれほど上を目指して追いかけても、結局、無限=完全な充足/幸福 には到達できないものだ。
だから、数字を追いかけている限り、絶対に幸せにはなれない。


では、大きな数字を設定し、達成を目指そうとするのではなく、いっそゼロを目指すいうのはどうだろう?
それはつまり、求めるものを望むものが何もない、ということ。
何もいらない、望まないのは、ゼロ=無限大。
見方を変えるとこれは、自分や人生における全てに対して満足し、満たされているということになる。

つまり、このゼロの状態こそがまさにありとあらゆる幸せを手に入れたという状態。
ブッダの言う、空の状態(悟りができる=至福を得られる状態)では? とのことです。



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三つめ。

あなたの当たり前の基準はなんでしょう?
晴れることが当たり前であったら、曇りや雨は辛いものになり、雨が当たり前ならば 曇りや晴れはとても嬉しく、感謝の気持ちが絶えなくなる。
自分の望みが叶わないことを自分の当たり前の基準にしていれば、もし望みが叶った場合は、それはありがたいし感謝も生まれる。
また、喜びが増え、人生もとても明るく楽しいものになる。


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四つ目。

ある人は言いました。
「この世の全ての人が、自分が間違っていると思えたら、戦争は起きないだろう。
もしもこの世の全ての人が "自分が正しい" と思いこんでいたら、争いごとばかりになり、戦争はなくならないだろう」


自分は正しいと思っていたら(正当化ばかりしていたら)、そこには必ず、怒りや憎しみ、攻撃の心が湧いておきる。
反対に、「自分のほうこそ間違っているかもしれない」と思えれば、怒りや憎しみ、攻撃的な心は湧きおこりません。
怒りや憎しみを生むものというのは、意外なことに、正義感とか使命感とかいうものに立脚している可能性が高いのである。


「なぜそういうことをするのだ?」と人の行動をなじる心が正義感というものではないでしょうか?
「そういう風にしないのか?」と、今度はしないことをなじる心が使命感というものであるかもしれません。

人がしていること・行動や行為に対し、指を指して糾弾すること、それが正義感。
そして、人が自分の期待や思い通りにしていないことを糾弾することが、使命感というものでは?

正義や使命を持ったり、感じることは悪いことではないと思う。
けれどもそれらを他の人に振り回した時、相手や周りはつらい状態になり、心地が悪くなるもの。

「感」を振り回せば、周りの人を傷つけます。


どんなことでも争いや戦いの心にならないこと。
どんな時でも相手を憎んだり攻撃したりしないこと。

「もしかしたら私が間違っているのではないだろうか。そもそも私側に正義というものはないかもしれない」と思い続けることが、謙虚ということかもしれません


謙虚さとは、自分がどう生きるかを自分に課して生きていくこと。

他人の生き方について色々な価値観を押し付けるのではなく、自分だけは自分の価値観や美意識で生きていって良いのですが、生き方や価値観を押し付けようとしている時、周りが見えなくなるものである。



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