スピリチュアル レッスン ー スピリチュアリズムの探究日誌

スピリチュアリズムの学びや経験から得たことや、自分自身の変化を記録してゆきます

スピリチュアリズムによる『正しい』正しさの基準とは




「この世に正しいも間違いもない」、「人によって正しさの基準が異なる」という意見を見聞きします。

なので、真面目で謙虚な人ほど自分の意見を通したくても戸惑うし、強気な人ほどそうした最近の理屈や風潮を声高に振りかざすことで、ひるむ相手に対して自分の間違いやエゴをごまかしたり自分の立場を守り通そうとしているかのように見えることが多いです。


個人的には、「そうはいっても、正しいと断言できるものはある」と思っています。
それは「真理」と呼ばれるもの。
いつどこで誰から見ても、覆されない、普遍的な事実/真実、です。
人の命は重いとか。


また、自分の中のモラルや良心(正義じゃありませんよ。それとは別)が、ぶれることなく自分自身に求めたり望むこと、も。
ただ、モラルや良心は、その人の精神性/霊性の進化レベルによって、その声が届かないこともあります。 もしくは、エゴや欲望の声と見分けがつかなくて、本当はエゴや欲望の声なのに良心の声だと勘違いしてしまう場合も。

真理というものは、童子のような心になりきって、古い概念から生じた誤った信仰を捨て去ってしまえば、実に簡単に理解できるものです

(シルバーバーチの霊言から)




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ということで。
私は、正しさの基準というのは、その人の年齢、なので人生経験の種類や豊富さによって変わってくると考えています。

その場合、今この時点の自分が正しいと思えることは、10年後には変わっている可能性があります。
また同時に、それだからこそ、まだ社会に出て間もない若い内の方が悩みが多く尽きなくて、けれどそれも年齢がいくたび減ってきて生きやすくなって来るのでは? 経験から得た知識や情報のおかげで、選択ミスや判断ミスが減るからです。


それから。
自分の選んだ判断や行動の先に何が起きるかどうなるかは、その人のカルマも関係しています。
カルマとは何か?はこちらをどうぞ(必ずしも災いばかりを意味するのではないですよ)
カルマへの誤解 - スピリチュアル レッスン ー スピリチュアリズムの探究日誌

この場合、カルマ(前世)の清算、つまりやり直しやばん回をするために、自分が望んでいた結果とは程遠い結果になったりします。
(といった理由からも、「思い通りにならなかった」とクヨクヨしたり、怒りや不満を覚える必要もない、いやむしろそれではカルマの終了になるどころか、新たなカルマの先送りになってしまうとさえ思います)


とにかくその人自身にとって絶対に間違いないのは、直感をとおして聞こえてくる、良心や道徳心の声です。それらは、神の声、天の声とも呼ばれます。(「一人一人に神が宿っている」と言われるのはそういうことかと)



と、そんなふうに受け止められれば、自分の望みや思惑が外れたからといって、起きたことや未来を不運に捉えなくてすむのでは、悲しみが和らぐのでは思います。

また、「どうしてこんなことに。なんてバカなことをした」と、ミスをした自分を必要以上に責める必要もないことが(スピリチュアリズムを知ることで)おわかりになられるかもしれません。
なぜなら、その時はそういう選択をするしかなかった(定めだった)のですから。
誰でも「これをしたら自分を苦しめる」とわかっていながら、あえてその選択肢を選ぶということはしないものと思いますし(自死でさえも「死ねばおしまい、楽になる」という間違った考え、けれどもその時の本人にしたら最良な判断と思えたからこそ実行されているのではと思われます)


ですので、試練や苦悩の時は、むしろ「やむを得ない」と甘んじて受け入れる方が、状況をもっと早く好転させたり、もっと早く自分を楽にさせられると思います。
起きてしまったこと、原因や結果にとらわれすぎ、相手に仕返ししようとか恨みや後悔を抱くとか、そうした考えで頭をいっぱいにさせ続けてしまったり、ですとか。
そんなふうにしているうちは、苦しみも悲しみも減るどころか、ますます強くなってしまうのではないでしょうか。

(許せない場合の切り替えかたは、こちらのシルバーバーチの言葉が参考になるかと思います)
人を許せなくていい。それに苦しまなくてもいい。摂理は完璧だから - スピリチュアル レッスン ー スピリチュアリズムの探究日誌



ネガティブな感情や考えが心を支配している時ほど、肝心なことを忘れがちと思います。
肝心なことというのは、誰もが霊性を高める修行中であって、不完全でミスや間違いを犯し、知識や経験不足であるということです。
肩書きや地位や年齢に関係なく、人間として生きているということ自体が、ここにいる全ての人たちがそうであると言う証と言えます。


地上的な評判や評価など、 ふかん(霊界から)で眺めて見れば、大したことではないとわかります。
地上の正しさ(常識)と霊界(宇宙、天)から見た正しさ(常識)は大きく異なっているのですね。
霊の側からみると、真逆の場合さえあります。
表向きには、地味で平凡で貧しく生きている人の方がよほど人格者で霊格が高かったり。
(それはその人が、なんでも惜しみなく人に与えてきたからこそです。善良さの証です。お金儲けにこだわってはいけないと戒めたから裕福になれないのではなく、どんどん人に譲ったりあげるから、生きてゆくのに必要最低限のものしか残っていないのです。それがお金や物の豊かさにばかりにこだわっている人たちにはよくないこと、恥ずべき事と見えているだけと思います)


ちなみに、キリストの「貧しいものは幸いです」という教えは、経済的この世的に贅沢で恵まれた生活をしている人ほど、自分が手にした金品や名誉などにしがみついてエゴや欲望が強まりやすく、すると良心の目が曇り、それに反する行いをしやすいからだそうです。
(金品や名誉名声にこだわると、エゴや欲が強くなり、すると守護霊などの善霊とのやり取りができなくなります。なぜならそれに気づいた低級霊たちがその人を取り囲み、間に入って妨害するからです。 せっかく守護霊たちが直感を通じて、お金や生活の不安を解消してあげようとしてくれているのに、こうして自ら拒否してしまうのです。 そしてますます、豊かさから遠のいてしまいます)


スピリチュアリズムでは、私たちの本当の姿は霊であるとしています。
そして、スピリチュアリストにとって、肉体が死んでからゆく「霊界」のほうが、現実の、実相の世界になります。

「この先に住むのが霊界」と前もってわかっているのであれば、地上で暮らしながらも、なるべく霊界の常識に則った生き方をした方が良いということになります。
そしてそのような心がけや態度が、肉体の死後にいち早く霊界の住人に生まれ変われ、人間として生きていた時代には想像もつかなかった至福の環境を手にすることができます。
この世でも社会のルールを知らない子供がいきなり仕事に就いたり、周囲から受け入れられないように、霊界の成り立ちやルールを知らないなどの準備ができていなければ、肉体が死んだからといって、いきなりは霊界で暮らすことはできないのです。

今生の生き方が、肉体の死後、自分がどんな環境に身を置けるか?を決めます。
でもそれは、神さまや閻魔様のような人たちがいて、「判決を言い渡す」わけではありません。
霊界では、誰もが自分で自分自身を裁く(決める)のです。


ということは、こんなことがいえると思います。
例えば、誰かとの間でしたことが、思いがけない結果やトラブルに巻き込まれたとします。
相手はこちらのせいだといって引きません。 罵詈雑言を浴びせてきます。
でも、自分では、どれほど自分の良心や道徳心に聞いても、自分がしたことに、これっぽっちも後ろめたさを感じられないのです。それどころか、「自分なりに最善を尽くしただけ。ましてやこんなことになるとは予想もできなかった」という確信もあります。

こういう場合、相手が言いたかったこと・考え・意見としては話に耳を傾けても、「全面的に相手の主張が言い分のほうが正しい、優れている」と受け入れなくて良いと、私は思っています。

自分を信じます。

そういうことをするのはそもそも、その人の器が小さいからかもしれません。
物の見方が狭くて浅いから、エゴが強いから?
あるいは不満をぶつけて難癖をつけているのかもしれない。


腑に落ちない時は、相手の言っていることやしていることを理性的に観察してみると、「自分の常識や価値観、憶測だけで、自分の方こそ完璧で間違いがないと思い込んでいる、そしてこちらの落ち度や責任に仕立てた物言いをしている」のに気づけます。
であれば、人間的にも、霊的にもその人のしていることは大人げないもの。
なので真に受けないこと。

とにかく、その件やその人のことを、できるだけ早く気にならないようにすること、忘れるようにすること、です。
考えれば考える分、記憶が強くなって、忘れにくくなります。
すると、いつどこで何をしてても、そのことが頭によぎり、イライラしてきたり。
「このイライラは、本来、自分はしなくていいものだ。自分を悪くしてしまう」と思えるなら、抱えないようにします。
それには、忘れられるようにすることが、いちばん。
思い出したら、呼吸でも運動でも、それとは何の関係もないことをするというのは、そうすることで注意がそれる=思い出さなくて済むからです。
(自分自身の)怒りを伴う経験も、トラウマになると私は思います。


スピリチュアリズムを使うなら、こう考えます。 その人は「憐れな人、気の毒な人だ」、と。
(この言葉の裏に軽蔑や見下しはないです。なぜなら死後その人の身に起きることをわかっているからです。どれほど辛い経験かがわかるから気の毒という気持ちになります)

肉体の死後、相手とあなたの立場は逆転します。
そしてこの時初めて、真の意味での「裁き」が行われます。
ですから、口惜しさや怒りに負けて売り言葉に買い言葉で返し、巻き込まれ、そうして自分へのカルマを新たに作らなくても、摂理は完璧ですからどんな間違いも見逃さないもの。
因果応報、なるようになっていくんですね。


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ところでこのテーマで重要なのは、今生で犯した過ちはその動機によって、死後の清算が重くも軽くもなるということです。

生前、自分では「私は決して間違っていない!」と確信があるのに不本意な結末になったことの場合、もしもその動機が誰かを守るため助けるためにしたことであれば、霊界でも地情状酌量の余地があって、『お咎めなし』、ということになるようです。
どんなミスもできない許されない、のではないのですね。


ということは、こんなことも言えると思います。
死後の清算/悔い改め(カルマ)がご心配でしたら、いつどんな時でも「自分は絶対に正しい!」とその信条や信念を貫きながら暮らしていかれたら大丈夫。何も恐れることはありません。


とはいえそれが良心の声ではなく、実はエゴの声でしたら話は別。
その見極めをしっかりできないといけません。
その判断を間違えないようにするためには、普段から内省の習慣や謙虚さを養うこと、利他的であること、理性や分別で感情や気分をバランスよく制御すること、知識や経験を増やすこと、が欠かせないと思われます。


いずれにしましても、善悪や正誤の判断は、人によって変わりますし難しいことですね。

でも、唯一「正しい」と信じていいものがあるとしたら、「それはいわれのない批判や中傷だ」「納得がゆかない」と抵抗したがる、自分の良心の叫びと思います。たとえ相手と「常識」の基準が自分のと違っていても、純粋な良心が下す判断には間違いがないはずです。
その場合、おかしなものはおかしいと、自分を信じていい!声を上げていい! って私は思います。

(それから、じゃあどういう行動をとるかは、また別のお話ということで)


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(シルバーバーチの霊言より)


あなた方の判断はその中途の不完全な理解力によって行われているのであって、善だといってもその段階での善であり、悪だと言ってもその段階での悪にすぎません。
その段階での判断にすぎません。
その時の事情との関連で判断した結果であって、その事情から離れるとまた別の判断をするかもしれません。
しかし、いかなる事情にも大霊(森羅万象の法則、摂理)が宿っているのです。


肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです
霊にとって最善であれば、肉体にとっても最善であるに違いありません

求めるものが正しいか間違っているかは単なる人間側の問題にすぎません。
私たちから見て大切なのは動機です。
動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃えて自分の利益を忘れた無私の行為であれば、(その祈りや願い)は決して無視されることはありません。


あなたには自分のすること自分の言うこと自分の考えることに責任があります。
あなたの成長の指標が魂に刻まれているからです。
したがって他人のすることに責任を負うことはできません。それが摂理です。
もしそうでなかったら、公正が神の絶対性を欠くことになります。


Q. もし私がある人をそそのかし、その人の意思が弱くてそれを実行した場合、それでも私には責任がないのでしょうか?

その場合はあります。他人をそそのかして悪いことをさせた責任があります。それはあなたの責任です。

何事も動機が大事に考慮されます。
知っていながら罪を犯す人は、知らずに犯す人よりも、 重い責任を取らされます。その行為はいけないことであることを「知っている」ということが罪を増幅するのです。
心に思うままがその人となります。その人の為すことがその人の本性に反映されます。


(母国を守るために戦地で戦った兵士について。当時は戦時中でした)、その動機は真摯で真面目です。
それは人間としてきわめて自然な情であり、それが魂を傷つけることにはなりません。
もちろん、理想としては殺し合うことは間違ったことです。
ですが、前にも述べたことがありますように、地上世界では二つの悪いことのうち、ひどくない方を(しかたなく)選ぶということがあるのです。


是非理解していただきたいのは、大切な知識、偉大な悟りというのは、悲しみと苦しみと言う魂の試練を通して初めて得られるものだということです。

私は決して自分以外のことに無頓着になれと言っているのではありません。
魂がある段階の偉大さを身につければ、自分の責任を自覚することになり、やってしまったことをやってしまったこと、自分が責任を負うしかないと深く認められるようになるものなのです。
一旦その段階まで到達できれば、何事につけ、自分に出来る範囲で最善を尽くし、これでよいという確信を持てるようになります。


Q. ある人は正しいと言い、もう一人の人は間違いだと言う場合もあります

そのいずれの場合においても、自動的に送られてくる良心による最初の指示が本人の魂にとって最も正しい判断であると申し上げているのです。
問題はその指示を受けた後で、それに不満を覚え、他にもっと楽で都合のいい方法はないものかと、屁理屈と正当化と弁解を始めることです。
しかしモニターによってすでに正しい指示が出されているのです。
この説はあまり一般受けしないかもしれませんが、私の知る限り、これが真実です。


あなたの理性が反発するもの、あなたの知性を侮辱するものは拒絶しなさい。
理にかなっていると思えるもの、価値があると確信できるもののみを受け入れなさい。
何でもすぐに信じる必要はありません。
あなた自身の判断力にしっくりくるものだけを受け入れればいいのです。


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※参考資料および出典先
霊的叡智の宝庫 シルバーバーチの教え(新版・上)
(2017年に改題と一部改訂がなされ、現在はキンドル版で販売されている模様です)
シルバーバーチの霊訓〈6〉


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