スピリチュアル レッスン ー スピリチュアリズムの探究日誌

スピリチュアリズムの学びや経験から得たことや、自分自身の変化を記録してゆきます

人を好きになったり愛せるようになる方法




前回ご紹介したこちらの本。
「個人的存在の彼方」(外部サイトに飛びます)


近藤千雄先生が高校生の時に生まれて初めて手に取って読んだスピリチュアリズムの本が、マイヤースの、「永遠の大道」とこの本の2冊だったそうで、読んでいる間は感動で涙が止まらなかったとのこと。
私もそうでした。 ワクワクするし、心が洗われます。

さて、読み進めていくうちに、自分にヒットしたのがこの引用部分。
(前はどうして気づかなかったんだろう?)


人を愛す、思いやりをもつ、許す、と言いますが、でもおそらく、具体的にはどうすればそれができるのか、わからなかったりしませんか?
マイヤースはそれを簡潔に説明してくれてます。
と申しますか、プラトニックラブの語源にもなっている、ギリシャの哲学者プラトンの言葉だそうです。

第三章  "愛する" ということの正しい在り方


最初にまず、世俗的なものの中にも美を感じ、あらゆる形体にも愛らしさを感じ取らなければならない。

さらに進んで、公正な行為、公正な行動原理を徐々に悟る。そうして最後に究極の原理、すなわち「絶対美」を知覚するようになる。




またこんなことも。


想像力を伴った理解ができていない愛は無力である。
しかもそれは、魂を進化成長させられるどころか後退させ、意識レベルを高めるどころか低いレベルに引きずり落としかねない。


瞑想的生活にせよ、高尚な目的の仕事の中にせよ、絶対美を見出した者は間違いなく、永遠の価値のなんたるかを悟り、肉体に縛られながらも、霊界の高等な意識レベルで生活し、地上的宿命から超脱していることになる。
そうした生活がいかに素晴らしく、いかに美しいものであることか。



(余談ですが、この本は霊界にいるマイヤース氏が、ある日突然カミンズさんという女性に降りてきて、二人の共同作業による自動書記によって書かれています)


つまり、人に関することも含めどんな物事に対しても、そこに真に美しいもの、嬉しくなったり感動したり、好感がもてることを見いだすようにすること。
審美眼や洞察力をもつ、高める、と申しますか。
またそのためには、感受性やイマジネーション力を高めることが欠かせない。
ということのようです。

確かに、「わぁ、なんてきれいなんだ」「ステキだ」「ときめくな」って感じられるものを見いだせれば、腹が立ってイライラしたり、嫌いにはなりにくそうです。


ただし。怒りをあらわにしている人、様子については例外で、私は美しいとは思えません。
その人は人目もはばからずに怒ってしまうほど感情を爆発させているわけで、でも本当はそんな自分に恥ずかしさも覚えているはず。
精神科医の水島先生のお言葉をお借りすれば、怒っている人は(腹立たしくてしかたなくて)困っている人なんです。
なのに、そういう心理状態にある人のことを「美しい」と感じたり褒めたくなるなんて。
私はそういう趣味嗜好?、ちっともステキだとは思えません。ちょっと不気味で怖いです。


さて、マイヤースはさらにこんなふうに続けています。


そうした生活(あちこちに美を求め、認める生活)がいかに素晴らしく、いかに美しいものであることか。

いうなれば彼は意識を携えた天使であり、一方では肉体の重荷を意識し、同朋の悲しみを分かち合いつつも、嵐の上を羽ばたく鳥のごとく、荒れ狂う世俗の騒乱を見聞きしつつも、地上界特有の悪感情である「貪欲」と「いがみ合い」と「憎しみ」の荒波を調達した静けさの中に安住することができる。


本性が制約されていては、美の理解は不可能である。
寛容性に欠け洞察力にも欠けているからである。
想像力に富む感性を欠く者は、霊的に次第に堕落し、たとえ外見は立派そうな生活を送っていても、内面的には理解力を欠いた思索の霧の中にある。
そのような地上の人生を終えた者は、よくよく用心しないと下の世界でさらに低い意識レベルへと下降し、何の意識的改革もされないまま、地上界に再生することになる。


絶対美を追求するものは積極的な地上生活を送るにあたって、五感の楽しみを軽蔑してはならない。
なぜならその五感をフルに活用した体験を得るために地上へ来ているからである。
花の美しさ、野山や海の美しさ、品の良い都会の魅力、生きとし生けるものの形態の美しさを味わい、楽しむべきである
音楽や芸術に喜びを見出し、文学に感動を覚えることは、決して煩悩のなせるわざではない。むしろ霊力を増すことさえあるのである。

そして最終的には見えざる宇宙的生命の存在を明確に意識しつつ、物的宇宙の荘厳さと恐ろしさ、不思議さとなどにも心を向けて行かなければならない。


人を好きになるのもいいし、孤高の士を決め込むのも良い。
悦楽を味わうのも良いし、禁欲生活を送るのも良い。
叡智の哲人になるのも良いし、俗人に徹するのも良い。
そうした側面を全て体験すべきなのである。

ただしそのすべてを 叡智が支配しなければならない。



道徳的に極端に厳格なピューリタン派にせよ、その反対の快楽至上主義のエピクロス派にせよ、自分の一面のみを主張し、偏った角度から人生と永続性を眺める者は、神の国からは程遠いこと ― 少なくとも前途はにまだまだ延々と道が横たわっており、死後も容易に高級界へは登れない無数の魂の集団の一人にすぎないことになる




私たちは地上で(試練も失敗も含めて)経験できることならなんでも経験して、それを霊界に持って帰ることも、地上に生まれてきた理由の一つであり、それが魂の進化向上(やがて全知全能の叡智を得ること=大霊/摂理と一体化すること)には欠かせません。

そういう意味で、どんな経験も楽しみなさいと勧めたイエスと、禁欲を勧めたブッダの思想との対比を、この後マイヤースが繰り広げるのですがそれもなかなか面白かったです。


が、だからといって、やりたいようになんでもやっていいんだよと勧めてはいないことも、ちゃんと伝わるといいのですが。


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