こんにちは。
今回は、著者のオーエン氏にむけて、守護霊であるアストリエル霊からのメッセージをご紹介したいと思います。
アストリエル霊は、当時キリスト教の牧師をしていたオーエン氏に対して、キリスト教(教義やありかた、神の概念の誤解)の矛盾を説こうとしています。(そしてこの後、オーエン氏は牧師をやめ、スピリチュアリズムの普及活動を始めます)
神は人間を裁いて罰を与えたり、あるいは支配するような存在ではないこと。
教義に背けば神からの罰が下るなどといった教え(もしくは神そのもの)を畏れなくていい。(当時は「天罰」といった概念によって、信者を恐怖で縛りつけていた)
自分の意志で、もてる力を最大限に発揮しながら自由のびのび生きていいんだよ、といったことをおっしゃってます。
が、このメッセージはオーエン氏やキリスト教徒だけでなく、私たちの生き方にも通じることであり、私自身は励まされ、背中を押されるような思いがしました。
こちらの本からお借りしています。
霊界通信 ベールの彼方の生活〈第2巻〉「天界の高地」篇
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よく聞くが良い。
神学の教えをあたかも身体にとっての呼吸のごとく絶対的なものと思い込む者には、衝撃があまりに大きく恐るべきものに思えるかもしれない。
が我々にとっては、神より賦与されている人間本来の意思と理性の自由な行使を恐れ、ドグマ(教義、教え)と戒律への盲従をもって、神への忠誠であるかの如く履き違えている姿を見ることの方が、よほど悲劇に思えるのである。
考えてもみよ。
『神の不機嫌に恐れおののかねばならぬ』とは、一体その神と人間とは、いかなる関係であろうか。
自らの思考力を駆使して真摯に考え、その挙句にたまたまドグマからそれたからといって、 神がその者を不気味な笑みを浮かべて待ち受け、網を持って捕らえんとしているとでもいうのであろうか。
それとも、”汝は生ぬるいぞ。冷たくもなく、さりとて熱くもない。よって汝の願いは却下する” と述べたというのはこの神のことであろうか。
自由闊達にのびのび生き、持てる才能をありがたく敬虔な気持ちを持って存分に使えばよいのである。
そしてたまたま過ちを犯しても、それは強情の故でもなく故意でもなく、善なる意図から出たことである。
両足を正しくしっかりと踏まえ、腕を強く振り絞って矢を射よ。
一度や二度、的を外れたとて少しも戸惑うことはない。
恐れてはいけない。
神が却下されるのは、自ら試みてしくじる者ではなく、勇気をもって挑もうとせぬ臆病者である。
このことは自信を持って断言する。
私はそのニ種類の生き方をたどった人間が、地上からこちらへ来た暁に置かれる場所、さらには高級界へと進みゆく門を探し求めるその経緯を見て、その真実性を十分に得心しているのである(※)。
(※ こちらをどうぞ ⇒ ベールの彼方の生活 ー 罪の報い(1) - スピリチュアル レッスン ー スピリチュアリズムの探究記